沖縄県の海底で謎の建造物が見つかったという記事やニュースを目にした事はないだろうか?
沖縄海底遺跡は与那国島沖で発見されたため海底探査船「しんかい二〇〇〇」で改定を調査したところ、海底から人口の建造物が次々と発見された。
この沖縄海底遺跡は与那国島沖で発見されたことから与那国島海底遺跡とも呼ばれているが、この海底遺跡とメキシコのマヤ文明とさまざまな共通点が見られることから沖縄とマヤ文明を結ぶ存在として、伝説のムー大陸を想定する説がある。
古代マヤ文明と沖縄は、ムー大陸経由で交流していたのか?
マヤ文明と沖縄海底遺跡との奇妙な共通点とは?
目次
日本最西端の海に眠る「与那国島の海底遺跡」
日本の最も西に位置する沖縄県の与那国島。この島の新川鼻あらかわばなという断崖の岬からわずか100メートル沖合の海底に、「与那国島の海底遺跡」と呼ばれる神秘の遺跡が眠っている。
海底遺跡の全長は、東西方向に約250メートル、南北方向に約150メートル、高さは26メートル(頂上部の約1メートルは海面から出ることも)。その外観は、まるで巨大な山城かピラミッドのようである。
それもそのはずで、用途はおそらく城か神殿ではないかと考えられている。防御を意識した造りや、宗教的な儀式に使われたとみられるレリーフなどがいくつも発見されているからだ。
新川鼻の沖合は、かつて陸上にあったことがわかっており、人々の往来もしやすかった。造られた年代は、様々な調査から2000~3000年前頃ではないかと考えられている。ところがその後、突如、急激な地殻変動が起こり、遺跡は海中に没してしまった。
これが人の手によって造られた遺跡だという証拠は、直角に切り取られた階段、大規模なメインテラス、外部からの侵入を阻む城門、周囲を取り囲む石垣、石ころひとつ落ちていない平坦な通路、人の手が加えられたことを直接示すクサビ跡、石器類など、数多い。
これらはすべて、自然にできたという考えでは説明不可能なものばかりだ。一方、人工物であるという証拠は数多く出されており、その信頼性は揺るぎない。
こうしたことから、与那国島の海底に眠る遺跡を水中文化遺産として登録しようという動きも出ている。遺跡の保護は必要不可欠であり、人類の遺産として後世に残していくべきである。
沖縄の海底遺跡
与那国、数年前からちょっと有名になっています。
なぜかといえば、すぐそばの海底に人間が手を加えて作ったとおぼしき遺跡が発見されたからです。
その 規模はかなり大きく、直角の石組や通路どが点在するもので、遺跡ポイントとしてダイバーにも有名になっています。琉球大学の木村教授が積極的に人工物であると証明する事にアプローチしていて、最近、本島北部から海中鍾乳洞が見つかり、調査の結果二万年~二千年昔に出来た事が判明し ました。その事から、遺跡もその時代には陸上にあった事が立証されたと言う事です。
遺跡下部についていた珊瑚が二千年前のものだった事を考えるとそれ以前に作られた事になり、今までの既存の古代史が見なおされる事は必至でしょう。 元来、学会と言うところは保守的な所のようで、この写真のようなものが自然にできたと言い張る方々が多いなか良く頑張っていると思います。
また、遺跡付近のサンニヌ台と言うところにも同じような石の建造物が見られ、加工された跡が見られる事から、これも含めた大掛かりな構造物があったと思われます。 ここだけでなく、慶良間近海、北谷近海、粟国近海などでも人工物と思われる構造物が発見され、話題になりました。 どこも、そんなに深海ではなく、5~20mくらいの所だそうで同じ時期に水没したと考えられます。
著書の中で 、琉球大学の木村教授の話として載っている文に興味を引かれるくだりがありました。 それは、アメリカインディアンのホピ族についてで、ホピ族といえば最近になってから発見されたような宇宙に関しての知識を昔からの言伝えの中に持っている不思議な種族で す。その言伝えの中に、終末予言も持っている事で、テレビでも以前紹介されていました。 ところで、60年以上前に発掘された不思議な石板が県立博物館に数枚保存されています。 カテナ、北谷などで発掘されたそうです。
彫られている図形は、ちまたで言うムーの文字に似てるかも知れないと思えるもので、日本の神社に残ってい たといわれる、古代文字(トヨクニ文字、アヒル文字)とも似ていると取れるような形をしています。
前出のホピ族の酋長が石板をみて、「いつか日の昇る国から、もう1つのペアになった石板をもった白い人が来る。それが自分達の兄にあたる。」と言う言伝えがあり、自分達も石板を持っている。ずっと探しつづけていた。 」といったそうです。彼等は、霊感でここが世界の中心だったところと感じていたそうで、?「この先、人類を救うのはOKINAWAの人たちではなかろうか。」 と言い残して帰途についたそうです。
有名なポナペ島のナンマタール遺跡をはじめ、太平洋の西南域にかけての古代巨石文化は、共通点の多いもの のようです。
引用元「沖縄の海底遺跡1」
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アトランティスの遺跡か?与那国島の海底遺跡は神秘的に眠る
日本列島で一番遠い島。それが与那国島です。日本の最西端に位置しており、石垣島から更に124kmも離れたところにあります。台湾までの距離が110km程度なので、日本と台湾の国境の島と言っても良いでしょう。
この美しい島の海底には凄いものが眠っていました。それが『アトランティス遺跡』『ムー大陸の遺跡』とも言われている与那国海底遺跡です。
引用元「アトランティスの遺跡か!与那国島の海底遺跡は神秘的に眠る | 沖縄県 | トラベルジェイピー 旅行ガイド」
「与那国島海底遺跡」はムー大陸か!?日本の古代遺跡再考
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以前アトラスにて、メキシコの海に巨大なピラミッド状の地形が存在することを書かせていただいた。
この記事の中で、よく似た事例として日本の沖縄、与那国島の海底遺跡を簡単に紹介した。与那国島の海底遺跡は、東西約250メートル、南北約150メートルほど、高低差は約25メートルという非常に巨大なもので、人が歩けるような階段状の通路やステップ、テラス、大広間などが存在している。
他にも石を切り出すためのクサビ跡と思われる小さな穴が一定間隔で直線状に存在していたり、柱を立てた跡とみられている穴や巨大な大岩を垂直に切り出そうとしたと思われる箇所もある。
また、日時計に用いられたと思われている太陽石や亀を図案化したような奇岩等も存在しており、この遺跡が神殿などの宗教的な施設として使われていた様子がわかる。この遺跡は1986年に地元のダイバーにより発見され、1990年代の超古代文明ブームに乗って世界中で注目されることになった。この遺跡こそ、ムー大陸など超古代文明の遺構ではないかと注目されたのだ。
この与那国の海底遺跡は遙か昔の人々によって作られたものなのだろうか?地質研究の結果、海底遺跡は与那国島の八重山断層群に沿って形成されているという。地質学的年代は約200万年以上前、いわゆる氷河期の時代である。人類はやっとその祖先である猿人や原人が出てきたところだ。
また、海底遺跡の平らになっている所の多くは水平ではなく、東南方向に10~15度傾いている。実際の地形だとすると、坂や緩やかな斜面として認識される角度でもある。では、海底遺跡はどのように作られたのか。
実は海底遺跡の近くにはサンニヌ台という奇岩群がある。波や風の浸食を受け、平らな岩盤が重なった階段状の地形になっている場所でもある。海底遺跡も同様に、浸食と風化で形成されたとみられているのだ。もっとも、天然の造形であっても非常に興味深い存在であることに間違いはない。
島では遺跡を近くで見る事ができるグラスボート等もあるので、興味のある方は一度実物を見に行ってみてはいかがだろうか。
引用元「「与那国島海底遺跡」はムー大陸か!?日本の古代遺跡再考 | ATLAS」
ムー大陸
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ムー大陸(ムーたいりく、英: Mu)は、ジェームズ・チャーチワードの著作によると、今から約1万2000年前に太平洋にあったとされる失われた大陸とその文明をさす。イースター島やポリネシアの島々を、滅亡を逃れたムー大陸の名残であるとする説もあった。
しかし、決定的な証拠となる遺跡遺物などは存在せず、海底調査でも巨大大陸が海没したことを示唆するいかなる証拠も見つかっておらず、伝説上の大陸であるとされる。
日本におけるムー大陸伝説
ムー大陸が存在した証拠として、イースター島には資源に乏しいにもかかわらず大規模な石造があることが挙げられることもあったが、かつてのイースター島は森林資源が豊富で、森林伐採の挙句文明が滅んだことが現在ではわかっている為、論拠にならない。
日本でのムー大陸の紹介記事は1932年(昭和7年)8月7日の『サンデー毎日』の記事「失はれたMU(ミュウ)太平洋上秘密の扉を開く」(三好武二)をはじめ、1938年(昭和13年)7月の『神日本』2巻7号(神之日本社)の「陥没大陸ムー国」など多数紹介されていた。現在ではその名が冠された雑誌『ムー』の誌名でも知られる。
出口王仁三郎はチャーチワードが『失われたムー大陸』(1931年)を発表する9年前の1922年(大正11年)に、『霊界物語』第9巻の総説歌で「太平洋の真中に 縦が二千と七百浬 横が三千一百浬 黄泉(よもつ)の島や」と書いて、太平洋に巨大な大陸があったことを発表している(2700海里=5000キロ、3100海里=5741キロ)。また1932年(昭和7年)に大阪毎日新聞でチャーチワードのムー大陸説が報道されると、ムー大陸とは霊界物語の黄泉島(よもつじま)のことである、と述べている。ムー大陸が沈没したことも、霊界物語第12巻第27章で書いている。
古史古伝の竹内文書を紹介した1940年(昭和15年)10月刊行の『天国棟梁天皇御系図宝ノ巻き前巻・後巻』(児玉天民 太古研究会本部)で葺不合朝(ウガヤフキアエズ王朝)69代神足別豊鋤天皇の代に「ミヨイ」、「タミアラ」という大陸(というよりも島)が陥没したとし、その世界地図が記載されている(1934年(昭和9年)5月の『大日本神皇記』(皇国日報社)では4代天之御中主神身光天皇と35代の千足媛不合10代天日身光萬國棟梁天皇の時とする。
ただし「ミヨイ」、「タミアラ」の名称はない。)。竹内文書では、これらの島では五色人(白人・黒人・赤人・青人・黄人)と王族の黄金人が暮らしていたが天変地異で沈んだため、天の岩船で日本など太平洋の沿岸域に避難したとする。「ノアの洪水」に代表される世界の大洪水はこのときの「ミヨイ」「タミアラ」の水没の影響としている。なお、日本における天皇家はムーの黄金人の子孫であるとし、日本人こそムーの正統であるとしていた。
この説は第二次世界大戦前、日本の天皇こそが世界の正統的な支配者であるということを裏付ける根拠の一つとして一部の急進的な愛国者の間で支持されたものの、国が教育する天皇像や皇国史観から大きく逸脱しているため弾圧された。
なお、この竹内文書自体、明治から大正にかけて竹内巨麿によって創作された偽書と認識されている。
引用元「Wikipedia」
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